両面宿儺(リョウメンスクナ)の呪い | ページ 3

両面宿儺(リョウメンスクナ)の呪い

息子『ごめんねぇ。オヤジに念押されちゃって。本当は電話もヤバイんだけど』

O氏『いえ、こっちこそ無理言いまして。アレって結局何なんですか?』

息子『アレは大正時代に、見世物小屋に出されてた奇形の人間です』

O氏『じゃあ、当時あの結合した状態で生きていたんですか?シャム双生児みたいな?』

息子『そうです。生まれて数年は岩手のとある部落で暮らしてたみたいだけど、生活に窮した親が人買いに売っちゃったらしくて。それで見世物小屋に流れたみたいですね』

O氏『そうですか・・・でもなぜあんなミイラの様な状態に?』

息子『正確に言えば、即身仏ですけどね』

O氏『即身仏って事は、自ら進んでああなったんですか!?』

息子『・・・君、このこと誰かに話すでしょ?』

O氏『正直に言えば・・・話したいです』

息子『良いよ君、正直で。まぁ私も全て話すつもりはないけどね・・・アレはね、無理やりああされたんだよ。当時、今で言うとんでもないカルト教団が
いてね。教団の名前は勘弁してよ。今もひっそり活動してると思うんで・・・』

O氏『聞けば、誰でもああ、あの教団って分りますか?』

息子『知らない知らない。極秘中の極秘、本当の密教だからね』

O氏『そうですか・・・』

息子『この教祖がとんでもない野郎でね。外法(げほう)しか使わないんだよ』

O氏『外法ですか?』

息子『そう、分りやすく言えば「やってはいけない事」だよね。ちょっと前に真言立川流が邪教だ、外法だ、って叩かれたけど、あんな生易しいもんじゃない』

O氏『・・・具体的にどんな?』

息子『で、当時の資料も何も残ってないし偽名だし、元々表舞台に出てきたヤツでもないし、今教団が存続してるとしても、今現在の教祖とはまったく繋がりないだろうし。名前言うけどさ・・・物部天獄(もののべてんごく)。これが教祖の名前ね』

O氏『物部天獄。偽名ですよね?』

息子『そうそう、偽名。んで、この天獄が例の見世物小屋に行った時、奇形数名を
大枚はたいて買ったわけよ。例のシャム双生児って言うの?それも含めて』

O氏『・・・それで?』

息子『君、蟲毒(コドク)って知ってる?虫に毒って書いて、虫は虫3つ合わせた特殊な漢字だけど』

O氏『壺に毒虫何匹か入れて、最後に生き残った虫を使う呪法のアレですか?』

息子『そうそう!何で知ってるの君?凄いね!』

O氏『ええ、まぁちょっと・・・それで?』

息子『あぁ、それでね。天獄はそのコドクを人間でやったんだよ』

O氏『人間を密室に入れて!?ウソでしょ!?』

O氏がこう切り返すと、息子は機嫌を損ねたようで、こう返した。

息子『私もオヤジから聞いた話で、100%全部信じてるわけじゃないから・・・もう止める?』

O氏『すみません!・・・続けてください』

息子『分った。んで、それを例の奇形たち数人でやったわけさ。教団本部かどこか知らないけど、地下の密室に押し込んで。それで例のシャム双生児が生き残ったわけ』

O氏『閉じ込めた期間はどのくらいですか?』

息子『詳しい事は分らないけど、仲間の肉を食べ、自分の糞尿を食べてさえ生き延びねばならない期間、と言ったら大体想像つくよね』

O氏『あんまり想像したくないですけどね・・・』

息子『んで、どうも最初からそのシャム双生児が生き残る様に、天獄は細工したらしいんだ。他の奇形に刃物か何かで致命傷を負わせ、行き絶え絶えの状態で放り込んだわけ。奇形と言ってもアシュラ像みたいな外見だからね。その神々しさというより禍々しさに天獄は惹かれたんじゃないかな』

O氏『なるほど・・・』

息子『で、生き残ったのは良いけど、天獄にとっちゃ道具に過ぎないわけだから、すぐさま別の部屋に1人で閉じ込められて、餓死だよね。そして防腐処理を施され、即身仏に。この前オヤジの言ってたリョウメンスクナの完成、ってわけ』

O氏『リョウメンスクナって何ですか?』

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両面宿儺(リョウメンスクナ)とは

両面宿儺(りょめんすくなう)は上古、仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる異形の人、鬼神である。

「日本書紀」において武振熊命に討たれた凶賊とされる一方で、岐阜県の在地伝承では毒龍退治や寺院の開基となった豪族であるとの逸話も残されている。

両面宿儺は計八本の手足に首のない二つの顔という奇怪な姿で描写される。

神功皇后に滅ぼされたとされる羽白熊鷲や「日本書紀」「風土記」にしばしば現れる土蜘蛛と同様、

その異形は、王化に服さない勢力に対する蔑視を込めた形容とも考えられる。

仁徳記の記述は一般に、大和王権の勢力が飛騨地方の豪族と接触した、5世紀における征服の事実の反映とされている。

また、「ひかがみ」「かかと」が無いという描写から、脛当てを着け、つまがけを履いた飛騨の山岳民が想像されることもある。

「日本書紀」仁徳天皇65年の条にはこう記されている。

六十五年 飛騨國有一人 曰宿儺 其為人 壹體有兩面 面各相背 頂合無項 各有手足 其有膝而無膕踵 力多以輕捷 左右佩劒 四手並用弓矢 是以 不随皇命 掠略人民爲樂 於是 遣和珥臣祖難波根子武振熊而誅之

【現代語訳】

六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。

息子『まあ~こういう伝承にちなんで例のシャム双生児をそう呼ぶことにしたんだわ』

O氏『そうですか・・・』

息子『そのリョウメンスクナをね、天獄は教団の本尊にしたわけよ。呪仏(じゅぶつ)としてね。他人を呪い殺せる、下手したらもっと大勢の人を呪い殺せるかもしれない、とんでもない呪仏を作った、と少なくとも天獄はそう信じてたわけ』

O氏『その呪いの対象は?』

息子『・・・国家だとオヤジは言ってた』

O氏『日本そのものですか?頭おかしいんじゃないですか、その天獄って』

息子『おかしくなっちゃったんだろうねぇ。でもね、呪いの効力はそれだけじゃないんだ。リョウメンスクナの腹の中に、ある物を入れてね・・・』

O氏『何です?』

息子『古代人の骨だよ。大和朝廷とかに滅ぼされた「まつろわぬ民」、いわゆる朝廷からみた反逆者だね。逆賊。その古代人の骨の粉末を腹に入れて・・・』

O氏『そんなものどこで手に入れて・・・!?』

息子『君もTVや新聞とかで見たことあるだろう?古代の遺跡や墓が発掘された時、発掘作業する人たちがいるじゃない。当時はその辺の警備とか甘かったらしいからね・・・そういう所から主に盗ってきたらしいよ』

O氏『にわかには信じがたい話ですよね・・・』

息子『だろう?私もそう思ったよ。でもね、大正時代に主に起こった災害ね、これだけあるんだよ』

1914(大正3)年:桜島の大噴火(負傷者 9600人)
1914(大正3)年:秋田の大地震(死者 94人)
1914(大正3)年:方城炭鉱の爆発(死者 687人)
1916(大正5)年:函館の大火事
1917(大正6)年:東日本の大水害(死者 1300人)
1917(大正6)年:桐野炭鉱の爆発(死者 361人)
1922(大正11)年:親不知のナダレで列車事故(死者 130人)

そして、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災、死者・行方不明14万2千8百名

O氏『それが何か?』

息子『全てリョウメンスクナが移動した地域だそうだ』

O氏『そんな!教団支部ってそんな各地にあったんですか?と言うか、偶然でしょう・・・』

息子『俺も馬鹿な話だと思うよ。で、大正時代の最悪最大の災害、関東大震災の日ね。この日、地震が起こる直前に天獄が死んでる』

O氏『死んだ?』

息子『自殺、と聞いたけどね。純粋な日本人ではなかったと言う噂もあるらしいが・・・』

O氏『どうやって死んだんですか?』

息子『日本刀で喉、かっ斬ってね。リョウメンスクナの前で。それで血文字で遺書があって・・・』

O氏『なんて書いてあったんですか?』

日本 滅ブベシ

O氏『・・・それが、関東大震災が起こる直前なんですよね?』

息子『そうだね』

O氏『・・・偶然ですよね?』

息子『・・・偶然だろうね』

O氏『その時、リョウメンスクナと天獄はどこに?』

息子『震源に近い相模湾沿岸の近辺だったそうだ』

O氏『・・・その後、どういう経由でリョウメンスクナは岩手のあのお寺に?』

息子『そればっかりはオヤジは話してくれなかった』

O氏『あの時、住職さんに「なぜ京都のお寺に輸送しなかったんだ!」みたいな事を言われてましたが、あれは?』

息子『あっ、聞いてたの・・・もう30年前くらいだけどね、私もオヤジの後継いで坊主になる予定だったんだよ。その時に俺の怠慢というか手違いでね・・・その後、あの寺もずっと放置されてたし・・・話せることはこれくらいだね』

O氏『そうですか・・・ところで今リョウメンスクナはどこに?』

息子『それは知らない。と言うか、ここ数日オヤジと連絡がつかないんだ・・・アレを持って帰って以来、妙な車に後つけられたりしたらしくてね』

O氏『そうですか・・・でも全部は話さないと言われたんですけど、なぜここまで詳しく教えてくれたんですか?』

息子『オヤジがあの時言ったろう?可哀想だけど君たち長生きできないよ、ってね』

O氏『・・・』

息子『じゃあこの辺で。もう電話しないでね』

O氏『・・・ありがとうございました』

その後、O氏や現場監督たちがどうなったのかは定かではない。