背後にあるマネキンの視線までも背中越しに突き刺すように感じ、
恐怖のあまり体中が硬直して、全くその場所から動けなくなった。
先輩の同僚『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・』
心の中でひたすら念仏を唱え続けた。
どのくらい時間が経っただろうか、不意に体の自由が戻った。
それまでの硬直による疲労のせいか、膝から崩れ落ち、安堵感から腰が抜けた。
この時には突き刺すようなマネキン達の視線は感じなくなっていたが、
体中からは脂汗が染み出して、鳥肌と遅れてやってきた震えのせいで、
満足に立ち上がることが出来なかった。
膝をついて、通路の床をしばらくじっと眺めていると、
腰に携帯していた無線の呼び出しが鳴った。
無線の声『場所○○○、発報!』
管理室からだ。
感知器が反応しているとのこと。
条件反射で無線を手に取り、『発報了解!』と上ずった声で応答した。
そのやり取りのお陰でようやく落ち着きを取り戻し、立ち上がることができた。
無線が報告してきた場所は彼のいる場所の近く・・・
そう、女性用トイレ前の感知器だった。
現在いる位置から2m程前方にある警報器の解除ボックスの所まで行き、
本来なら異常を確認しなければいけないのだが、
緊張のあまり、その手順を飛ばして解除し、警報器を復旧させた。
先輩の同僚『発報○○○、異常なし!』
管理室に連絡を入れ、足早にその場を立ち去ろうとした。
しかし、一瞬視界の中に入ったフロアの異変に気付いてしまった。
辺りにあるマネキンの首だけが、
ぐっ、ぐぐぐぐぐ・・・・
と女性用トイレの方に回り出したのである。
だが、首の動きとは逆に、瞳だけは彼をじっと睨みつけている。
無線の声『場所○○○、再発報!』
無線の声が怒鳴っている、恐怖のあまり動くことができない。
彼からの応答がない状態が十数分続いたため、
先輩と何人かが現場へ向かい、様子を確認することになった。
先輩『○○警備員!○○警備員!応答しろ!!』
先輩達が駆けつけると、彼は固まったまま立ち尽くしており、
暗闇でも認識できる程の大量の汗をかき、紺色の制服はじっとりと濡れていた。
先輩はとりあえず警報器を復旧し、彼に手を貸して待機所に戻った。
しばらくして落ち着きを取り戻した同僚から事のいきさつを聴取した。
その当時、婦人服売り場に置かれていたマネキンの瞳の部分にはガラスが埋め込まれていた。
一般的にはブラシで描かれているのだが、リース料金も変わらず、
いささか豪華な見栄えだったため、店内の全てのマネキンはこのタイプが使用されていた。
ガラス製の瞳は、ライトを当てると視線を向けたかのように見えるため、
あの現象の正体は、ただの見間違いだろうと慰めた。
警報器の発報は復旧操作しても10分程で再発報するため、
故障による誤発報だろうという結論付けがされ、
取替えが完了するまでは鳴動しないようにしておこうということで、
その日は落着した。
先輩の同僚は気持ちを落ち着かせる目的で、何日か休暇を取ることになった。
彼が休暇を取っている間、他の警備員が巡回しても怪奇現象に遭遇することはなかった。
例の警報器は数回新品に取替えられたが、夜中になるとやはり発報を繰り返したため、
原因不明のままダミー、つまり殺した状態にしてあった。
先輩の同僚が仕事に復帰した。
勿論、例の婦人服売り場のフロアを巡回しなければならない。
彼がフロアに差し掛かったのは、あの日と同じ深夜1時過ぎである。
気持ちを落ち着かせ、周囲の異常確認をする。
マネキン達は静寂を保っている。
「やっぱり気のせいだったのか」と思い、女性用トイレに進入する。
異常なし・・・
だが退出しようとした瞬間、視界の端で異様な光景を捉えた。
このトイレには壁一面に化粧鏡があり、そのうちの1枚が用具入れの扉を映している。
その扉が徐々に透けていくように見えたのだ。
彼は進行方向に向いたままの顔を鏡に向ける事ができず、
片方の目で鏡を凝視していた。
冷ややかな脂汗が彼の頬をツーっとなぞる。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・
やがて、すっかり扉の透けてしまった用具入れ内は、
白くて大きい洗面器を鏡の前に晒している。
次の瞬間、信じられない光景が映った!
溶けたような腕を洗面器の縁に掛け、
頭とおぼしきモノがゆっくりと立ち上がった。
『おぎゃあああぁぁぁぁーーーー!!』
先輩の同僚『うおおぉぉぉーーーーー!!』
彼は大声を発し、凄まじい勢いで待機所にへと逃げ帰った!
血の気の引いた青白い彼の顔を見た警備員達は流石にただ事ではないと思い、
その場にいた全員で、現場確認をしようということになった。
先頭を切ったのは、A氏の先輩である。
用具入れ内は勿論のこと、トイレの個室もくまなく捜索した。
だが、異常なモノは何一つ見つからなかった・・・
彼はその日の勤務を終えると同時に退職した。
その後、これら一連の出来事が原因かどうか定かではないが、
Sデパートでは、マネキンを置かなくなり、鍵のなかった用具入れには鍵が付けられた。
だが、例の警報器は殺したままである。
先輩の話を聞き終えたA氏はこう質問した。
A氏『もう、それから何も起きてないんでしょう?』
その時初めて、先輩の顔色が真っ青になっていることに気が付いた。
先輩『いや、わからない。言っただろう?』
先輩『それ以来、俺を含めて誰も夜警であの女子トイレをまともに巡回する奴なんていないからな』
A氏『でも、今日は何もありませんでしたよ?』
先輩『そうか、そうみたいだな。おまえには・・・』
そう言うと、先輩は口をつぐんでしまった。
この数ヶ月後、先輩警備員はこの職場を去ることになる。
最後の出勤日、A氏は先輩と組んで勤務することになった。
この日、彼はあの日のことを語る。
先輩『あの日な、俺、例の女子便所の鏡を見てしまったんだ。』
先輩『そしたら、見ちまったんだよぉ』
先輩『無数の子供の手の跡があってなぁ』
先輩『それがどんどん、どんどんどんどん鏡の中の俺のほうへ移動して来るのをよぉ・・・』
先輩警備員は退職後、行方が掴めなくなってしまったのだという・・・